統合失調症の母をついに入院させた話

https://anond.hatelabo.jp/20170203210126
先日、独居状態の高齢者である統合失調症の母をついに入院させた。

発症から入院までおよそ四半世紀程かかった。

ここ1年程で近隣とのトラブルが増え、ここ数カ月は週に一度のペースで警察からトラブル報告の電話が来て謝罪に行く日々だった。

そこで「医療保護入院」という形で、本人の了解なしに家族の同意により強制的な入院を行った。

「こんな長い期間なんで放っておいたんだ」「お前の責任でもあるだろう」という声もあるだろうが、

自分の気持ちを整理する意味でもこれまでの経緯を書く。

母は兼ねてより気性の激しい性格で、自分の行動が間違っていると思う事がなく、謝罪したことを見たことがない。

興奮すると激しく怒鳴り散らし、強い言葉で他人を攻撃する人であった。

日常的に暴力を振る事はあまりなかったが、私は10歳になるまではかなり厳しく躾をされ、

一時間以上正座状態で延々怒鳴りつけられ、時に激しく叩かれて育った記憶がある。

母は父方が信仰している宗教を激しく嫌っていた。

父が私と弟を連れ、父方の実家や親戚宅に遊びに行く際に、母がついて行くことは殆ど無く、

「もし宗教の勧誘があっても絶対に断れ!」「あれは怖い宗教だ!」と念押しをされていた。

たまに母も父方の実家に来たことがあるが、その際は私も母の影響で、事件が起こることを恐れずっと緊張していた。

夏休みの子どもだけの楽しい父方の親戚宅の滞在は、いつも怖い出来事が起こるのではないかという思いとセットだったが、

母が懸念するような出来事は一度も起きた事が無かった。

そのうち父の浮気を母が疑う様になり、夫婦喧嘩が絶えなくなり、別居となったのが私が10歳の頃

別居寸前の激しい言い争いの末、兄弟二人に「お前らは父と母、どっちに付いて行くのか」と問われた際、

「両親が分かれて暮らすことが嫌だ」と泣きながら主張した事を覚えている。

しかしその頃、私は母の影響を強く受け、父を慕いつつも、母の想像上の悪人である父を恐れていた事もあり、

母方の祖母宅傍に、母と二人で移り住む事となった。そして弟は父に付き、これまでの家に残る事になる。

専業主婦だった母は別居後、販売員の仕事を始め親子二人の生活が数年続いた。

そして事あるごとに父の悪口とありもしない怖さを母から聞かされて育った。

余談だが、私は小学1年生から激しいいじめを受けており、別居で引っ越した後もいじめは続き、当時はかなりつらい人生だった。

ある日、私の学校の開校記念日と、母の休日が重なった日に、思いつきで弟に会いに行こうか?

という話になり、離婚調停の最中に、小学校の校門から出てきた弟をそのまま家に連れてきてしまった事がある。

再開を喜んだ夜になって慌てて父が家にやってきたが、母は玄関の鍵を開ける事なく、父を激しく責め

自分の非は一切認めずそのまま追い返してしまった。結局、その日から狭い借家に母と弟で3人で住むことになり後に離婚が決定する。

中学生の頃、私に激しい反抗期が起こる。これまで母の言いなりであった状態から、徐々に物事を相対的に見れる様に

なってきてから、今までの反動もあり様々な出来事から私は母を強く嫌う様になった。そしてこの感情はいまだに消えることが無い。

対照的に母は会えない期間のあった弟へ強く愛情を注ぐようになる。

私の事には無関心ながらも「高校を出たら最低限の勉強だけして就職して早く家に金を入れる様にしろ。」と言われていた。

しかし弟はスポーツに才能を見出し、なんとか母が体育系の大学に行かせていた。私は母を恨み、弟を羨んでいた。

母が徐々におかしくなっていったのはこの頃だったろうか。

仕事上での人間関係のトラブルの話は祖母としょっちゅうしていたが、相変わらず対立する相手を悪くいう事がほとんどだった。

その内、「誰かと話をしている際に、嫌な同僚が盗み聞きをして事情を知っているのでは?」と言い出し、

次第に「盗聴しているんじゃないか?」と言い始めた。そして話の中で彼女の敵になる人間が徐々に増えて行った。

しかし私は「元々の激しい性格と強い猜疑心が招いたいつもの奴だろう」位にうんざりする程度で聞いており、

しばらくは家族や親族の誰もが病気の可能性であることを疑う事はなかった。

就職してしばらくは生活費を払っていたが、とにかくそんな母と一緒に生活をしたくなかったので、

近所に一人暮らしをする事になった。母は「今の仕事がどうなるかわからないから一人暮らしはしないでくれ」と言っていたが

自分の性格が招いた結果だと思い、無視して家を出た。そして私は実家に生活費を払う事をしなくなった。

近所ではあるが、母と弟と会う事や話すことを極力避けた生活が続く。

母は仕事を辞めパートをするようになった、この頃から私は近所に住んでいた弟や祖母や親戚とも疎遠になる。

しばらくしてカートを引いて歩く母と会う事たまにがあったが、嫌っていたこともあり

あまり会話をすることもなかった。

しかし、あれは確実に症状が進行し言動がおかしくなり、徘徊をする様になった異常な母だった。

私が母の異常性を指摘すると激高して怒り、頑なに否定した。また、私自身も子供の頃からの嫌いな母と向き合う事になり、

落ち着いて説得することができず感情的にしか対応できなかった。

その様な事実に気付きながら、私は再就職先が通勤で遠かった事もあり、実家の傍を離れる事となる。

弟や親戚が母をなんとかしてくれる。自分はあの家族とは関わりたく無い、という思いがあった。

おそらくこの頃の弟の絶望感は想像をするに余りある。体の故障で体育大学を中退した彼は、徐々に壊れて行く母と二人暮らしを続け、

アルバイトをしながら、母の生活費もまかなっていた。

兄や父には頼れない、母の兄弟である親戚の中でも、母は鬼の子の様な扱いだった為か、親戚にも相談できなかったのだろうと思う。

そして次第に彼も家に帰る事を避ける様になったという。 昼夜の境無しに恨み事と自分が狙われている妄想を、

弟が寝ていようがお構いなしに呪詛の様に話し続けるのに耐えられなかったのだろう。

彼は一時はカルト宗教に通った事もあったそうだ。

その頃私は都内の仕事が好調で彼女もできたが、人間関係の立ち回りで失敗し、今思えば鬱の症状を発症し、結果解雇される事になる。

その後も自営業や再就職をするが、運が悪いのか、決定的に欠けた何かがあるのか。最初は順調に勤めても何故か数年すると

上手く行かない状態が何度も続き今に至っている。

幼少期から自己肯定感は低い方だったが、今では自己肯定できる理由がさらに少ない人間になってしまい、死を考える日も増える様になった。

しかしこんな私を慕ってくれるパートナーをこれ以上悲しませたく無いというのが、生きる理由になりつつある。

この頃は母の症状もかなり進行しており、必要のないものを買い込み家が物で溢れ、荒れ放題であった。

何年かすると賃貸住宅を出ないといけない状況が何度か続く、弟に頼まれ引っ越しの手伝いをしたこともあった。

普段弟は殆ど家に寄り付かず、母は近所では有名人であった様だ。

しかし何故か日常生活を一人で行うことには支障がなく、買い物や家事などは全て一人でこなせる状態で、

支給された年金と弟の援助で生活を続けていた。風変りな半独居老人でしかなかった。

徘徊を行い細かなトラブルはあったではあろうが、周囲に大きな迷惑をかけることはなかったらしい。

ただし、自分が襲われ被害に遭う妄想は常にある為、頻繁な110番通報や派出所に入り浸り被害妄想を延々しゃべり続ける事は

しょっちゅうだった様だ。たぶん地域の警察官の中でもやっかいな有名人であったと思う。

その点では心あたりのある警察官の方には大変申し訳なく思ってる。

仕事とはいえ私たち同様、制度の穴で苦労を強いられる人々であることに変わりはない。

バラバラの家族に転機が訪れたのは、今から数年前に弟に彼女が出来た事がきっかけだった。

母の住む家に通える距離にある、彼女の家で生活を始め、近く家庭を持つ事を報告してくれた。

彼女は大きな困難を乗り越え成功を収めた家で育ち、弟にはもったいない程の素敵な相手だった。

そして彼の子どもが授かった事をきっかけに、母を何とかしなければ、という兄弟での協力体制が築かれる事になった。

これより以前に、弟が役所や医師に相談したこともあったそうだが、散々たらい回しにされ出てきた結論は、

本人に自分が病気だという意識(病識)が無いと、精神科への通院もできないし治療もできないとの事だった。

そして母の症状は強い猜疑心が伴う為「薬に毒が混入している」「過去に薬で体をおかしくされている」

という妄想を持っており、通院・投薬が難しい状態だった。

入院させるにも費用が高額な為、ワーキングプア状態では結局どうにもならなく何もできない、という結論に達していたようだ。

私も色々調べたが、実際、統合失調症がある程度進行した状態で、病識は無いが日常生活は可能、しかし治療を拒む状態だと、

いわゆるグレーソーンとなり、周囲の人間にお金が無いとどうにもならない状態だった。

そしてこの結論はここ数年、兄弟二人で対処した際にも全く同じ結論にしかならなかった。

いくつかの精神科を兄弟で相談に回ったが、どこもまず本人を連れてこないと話にならない、という結論だった。

また、症状が出てから経過年数が長く比較的症状が重い為、どこも受診を嫌がる兆候があった。

そこで「健康診断に行こう」と言いつつ近くの総合病院に連れて行き、そこにあった精神科も同時に始めての受診をさせた。

はらはらしながらの受診だったが、精神科医統合失調症と病名を告げられても理解が出来ていない様子だった。

母無しで医師に相談した際、入院相談等もしたが、否定的な答えしか戻って来ず、投薬しても発症から長期経過している為、

回復はほとんど見込めない旨。どこも満床でベットが空くまで場合によって半年以上待つことになる旨。

入院には大変お金がかかる。月30万位は行く、生活が苦しいと難しいよねという旨を伝えられ。まるで軽くあしらわれているかの様だった。

今ならわかるが、この医師からはケースワーカーの存在を紹介されることもなく、国立や県立病院の可能性を教えてもらう事もなかった。

自分の事を棚に上げてあえて言うが、面倒事を何とか避けようとしかしなった、この医師の仕事に対する姿勢を私はいまだに腹立たしく思っている。

それでもこちらから持ち掛けた話で、弟が与える健康ドリンクに密かに混ぜて飲ませるという事で薬を出してもらった。

薬は数週間飲ませ続ける事が出来た、その期間は明らかに普段と変わった状態になり、何らかの良い作用が出ている様だった。

僅かに希望が見えたが、次第に蓋が空いた状態で渡される健康ドリンクを疑い出した。

飲むと頭がぼーっとしてだるくなると言い、健康ドリンクを飲む事を拒否し始めた、

毎日離れた母の家まで通う弟の負担もあり、 投薬はそこで終了となった。

同時に[精神障害者保健福祉手帳]の取得を検討したが、結論としては現状で必要が無いものであった。

取得しても得られるメリットは通院をすることで受けられる医療費が対象であること。

医療費負担が3割→1割だが、既に母は年金生活者で、医療費1割負担の対象者であること。

そして手続きが煩雑という事を事前情報として聞いていたこと。

これらの判断から通院ができない母には不要であった。

今後母がトラブルを起こした際、持っておいた方が無いよりもマシでしょう。

という免罪符程度のものでしか無い。という結論になった。

また、通院と同時に市役所への相談で介護申請を行い、定期的に家に来てくれるヘルパーさんと信頼関係を築き、

ゆくゆくは薬を飲ませてもらう事も計画したがこれも実現できなかった。

まず、加齢により体の不調があることも理由に介護申請を行ったが、統合失調症等の精神疾患は介護認定の判定要素に

大きく加味されることが無く、介護度2となった。

ヘルパーさんが定期的に母の自宅に訪れて買い物の連れ添いや、身の回りの世話等をしてくれることになった。

母も最初は喜んでいたが、次第にヘルパーさんが物を盗んでゆくと言い出し、やはり疑う様になった。

そしてヘルパーさんを避ける為か、ヘルパーさんの訪問予定時間に外出することが増えた。

そうなると、介護サービスを受けた事にならなくなる。介護事務所も国にに介護をした事実の申請が出来なくなる為、

実費の人件費が発生するようになる。その費用がは当然私が持つ事になる。(1時間約3000円程度だったろうか?)

そしてヘルパーを家に寄こさないでくれ、と強く言い出し、これも結局お手上げとなった。

結局この時も出てきた結論は、もうちょっと病気が進行しないとどうにもならないね。ということだった。

そして、去年あたりになってから、私の元に警察から頻繁に電話がかかるようになる。

過去にも真面目な新人と思われる警官から、母の妄言を真に受け私の元に安否確認の電話がかかることがあったが、

今回はついに近所の方とトラブルを起こし始めた。アパート近隣の住民に迷惑をかけ遂に警察沙汰となった。

どうも明らかな幻聴が聞こえる様になり、彼女の人生で登場した嫌な奴をののしったり、

幻聴で助けを求める困った人を助けようとしたり、私たち子供の危機を救おうとしたりした結果、大きなトラブルに発展している様だった。

以前より持たせて携帯電話も、しょっちゅう警察に通報したり、私たちに電話をし、

一方的にしゃべり続けたりする大事な必須アイテムだったが、いつしか持ち歩かなくなり、荷物だらけの部屋に紛れてしまった。

近隣のトラブルはついにアパートの不動産屋に伝わり、大家が嫌がり、アパートの契約更新を一方的に拒否され、退去を迫られた。

ヤクザの様な不動産屋に電話口で恫喝され、あなたが面倒を見ないと駄目だろ、引っ越すにしても老人一人を

入れてくれる所なんてどこにもないよ。とまったくもって他人の家庭事情に土足で踏み入る様な事を言われる。

要は親を引き取って面倒を観るなり施設に入れるなりしろ、という訳である。それが出来ればこんな苦労はしていない。

親を引き取って一緒に生活することになったら、私の気が狂うか、母を殺めてしまいかねない。と思ってる。

さらに警察や近隣住民からの電話が続く様になる。その都度、謝罪の電話や訪問に向かう事が短い期間に連続するようになった。

これまで半世紀近く、おそらく二番目に被害を受けた人間が、その加害者のしでかした事の為に謝罪に回るという罰ゲームである。

しかし、このトラブルの増加あたりから、状況は徐々に好転を見せ始める。

トラブル頻発の経緯からか、独居老人を見て回ってくれる地域の高齢者支援センターの方がたまに母の様子を見てくれていたそうなのだ。

この頃になると母の症状もだいぶ進み、自分の事を自分ですることが出来なくなりつつあり、言動が破たんしている頻度や時間も

長くなってきた。支援センターの方は、そんな母を外部に連れ出し入浴をさせてくれたり、

家の手伝いや話相手になってくれることがあったそうだ。

長く孤独だった母に対し、支援センターの方が母との信頼関係を築いてくれた。

母が病気になってから知り合った人間の名前を覚えて良い人物として会話に登場することになった。

この支援センターのセンター長さんには感謝しきれない思いだ。

センター長さんの案で母を健康診断に連れ出す事ができた。

そこに私も同行し、その流れで精神科のクリニック紹介してもらい、再度精神科の受診させることもできた。

しかし、入院施設もなく、通院投薬が前提のクリニックで紹介された入院施設のある病院は、

かつて散々嫌な思いをした地元の総合病院だった。ウェブサイトで調べた所、当時の担当医師は既にいなかったが、

入院をさせても高額になり、治療をするにも、これまでと同じ結論にたどり着くのは明らかだった。

でも、これ以上トラブルを抱えた状態ではどうにもならない、そこでセンター長さんは老人ホームへのショートステイを提案してくれた。

何度かショートステイを行って次第に慣れてもらい将来的にはそこで生活を、というニュアンスだったと思う。

まず2泊3日で滞在させることになった。滞在時には私も同行し、旅行にでも来たと思って楽しんでくれと言って置いていった。

けっこう喜んでいた様子だったが、結局、最後は自ら老人ホームを抜け出そうとしたそうだ。

怖い何かがいてここにはいられないとの事。母は予定滞在期間より少し早く、自宅に送り戻された。

老人ホームの事も調べた。経済的には何とかなる様になっているが、それにはアパートを引き払い、完全にホームで暮らすことが前提になる。

しかしホームでは看護サービスは受けられるものの、やはり薬を強制的に飲ませる事は出来ないそうだ。

また、本人の意思を尊重することが前提なので、無理矢理家に帰ろうとする母を拘束することはできない。

また周囲とトラブルを起こした際はやはり退去を求められる可能性がある為、現状での長期滞在は難しいという結論だった。

ここで進退窮まった。引っ越しは迫られる、トラブルは頻発する、治療には金がかかる。同居は実質不可能。

正直にいうと少しだけ真剣に完全犯罪を考えた事もある。

しかし殺人の容疑者比率で最も多いのは家族や近親者という事を知って、実現不可能であることを認識した。

こうなったら、母と絶縁状態の親戚を頼りにするしかない。という事になり、自らの恥を含め事情を話し、

母のきょうだいである叔母に当面の入院費を工面してもらった。

その際、医療関連の仕事をかつてしていた母の弟にあたる叔父から、

県立の精神病院の存在を教えてもらう。あそこなら比較的安くすむかもしれない。ということだった。

アパートの引っ越し先を何とか見つけ、ゴミ屋敷の引っ越しを済ませ、恫喝をされた不動産にアパートの引き渡しを済ませた。

殴りたかったし文句の一つも言いたかったが、こちらは加害者なので、なにも言える状況ではなかった。

翌日、筋肉痛で疲労困憊の状態で県立の精神病院に電話をかけた。

事情を話し、入院費について尋ねると、これまで問い合わせた病院のどこよりも費用が安く入院できるとのことだった。

状況で費用も変わるが、約8万程度だという。さらにこれまで受診した病院と連絡を取ってもらい、事情を把握してもらった。

そして遅くとも2週間位で入院ができるとの事だった。

電話した日の夕方、再び病院から電話があり、明日の入院がキャンセルになった関係で、

母を連れてくれば、明日そのまま入院できる。と連絡があったのが、つい一昨日の事だ。

正直、すこし拍子抜けをした、これまでの苦労は何だったのかと。

最初に誰かが県立の精神病院の存在や制度や費用についてしっかり教えてくれれば、自分自身できちんと全て調べていれば、

こんな苦労はしなかった。私自身、最初は問題から逃げようとしていたし、問題に向き合ってからも苦労の方向性が

間違っている事に気付けなかった、しかし、役所、介護、福祉、医療、警察、の現場であった人も親類も、

これまで誰もそのアドバイスをくれなかった。いや、耳を傾けようとしなかった部分も多分にあるだろう。

正直、母の病気は隠したい恥という部分もあり、これまで親しい関係の人にしか、打ち明けた事が無かったが、

自分の不甲斐なさと共に、制度の穴に対しても恨み言の一つは言いたいと思ってこれを書いている。

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あと少しだけ以下に続きます。

http://anond.hatelabo.jp/20170203210406

ちょっとはみ出た、つづき

入院が決まった直後に、入院時に必要なものを買い込みレンタカーで母の元に向かった。

徘徊が多く、連絡手段も無い為、朝、荷物だらけの新居に迎えに行っても空振りになってしまう可能性があったからだ。

荷物だらけのアパートに一晩泊まって見張るつもり位でいた。

破たんした呪いの言葉を一晩聞き続ける程度だったら何とかなるだろうと踏んで寝袋を持って家を出た。

アパートにいた母を、最後の晩餐さならが母を食事に連れ出し、禊を済ませるが如く、深夜営業の温泉に連れて行った。

これまで母の病気が進行してから、弟を含め3人で食事をすることは何度かあったが、

私が成人してから母と二人で食事をしたり、温泉に行ったりしたのは初めての事だったと思う。

しかし、あのアパートで母と二人きりで一晩を過ごすのはやはり心理的に無理だった。

そこで、仕事で徹夜を強いられる彼女がいる自宅に、彼女に無理を言って連れて行く事にした。

自宅に母を招いたのも初めてだし、彼女に合わせるのも初めての事だった。

彼女も親に対してトラウマを抱えており、軽くパニックにさせてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。

しかし、この母親に対して、親孝行らしい親孝行を始めてしたのかもしれない。

母は何度も夜中に起きて二人の息子が襲われる、警察に助けを呼ばないと、言った事を不安になってしゃべっていた、

うとうとすることもあるが、眠りかけた際は幻聴として聞こえる言葉をそのまま声に出してしゃべっていた様だ。

母にとってみれば、もう25年間、四六時中不安な時を過ごしているのだ。

翌日、車で病院に向かう途中、母は、私が子どもの頃、家族でドライブに行って以来車に乗れて楽しいと語った。

富士山が山間から見えてとても綺麗だった。

医師に診断してもらいその場で医療保護入院が決まった。

家族の同意があれば、本人の意思に関わらず強制的な入院が可能な制度だ。

その際、思わず、ここまでとても長かったです。と医師に話した。医師も私の苦労を察してくれたようだ。

診断時、私から事情を話す際に、精神科へ行っても結果的に治療が受けられない件を話したくだりで、

やっぱりそうか、といったニュアンスだろうか、ため息を漏らしていた。

法律上定まった手順であろう医師が保護入院の説明をを本人に読み上げる際も、

聞きはするが当人になにが起こるのか 理解していない様子だった。

閉鎖病棟に送る際、持ち込み禁止となる物が母の身に付けたものからいくつも出てきた。

不安からか何枚も重ね着した一張羅のポケットや、鍵だらけのウエストポーチからは、

刃物であるハサミや安全ピン、 南京錠などの金属、ワイヤー錠等のひも状のものが、

わんさと出てきた。しかし、 体を傷つける可能性のあるこれらのものは閉鎖病棟内には一切持ち込めないそうだ。

手続きを済ませ、病院に母を預け、弟や彼女に報告をし、帰路に向かう際は、

涙も出なかったし、ざまあみろ、といった感情にもならなかった。

これでひと段落ついたんだな。という感慨はあったが、正直、いまだに母への気持ちは整理がつかないし、

私が多分死ぬまでこのもやもやした気持ちに整理はつかないのかもしれない。

ともかく、これで弟にかかる負担も減るし、母の不安もいずれは多少なりとも解消されるかもしれない。

本人がいつか病識を持つようになって、まともに話せる日がくれば、また母に対して憎しみの感情が沸くかもしれないし。

そんな日は来ないかもしれないが、ともかくこれで一区切りついた事になる。

繰り返しになるが、「こんな長い期間なんで放っておいたんだ」「お前の責任でもあるだろう」という

声もあるだろうが、自分の気持ちを整理する意味でもこれまでの経緯を書いた。

自分を棚に上げてなにか説教じみた一言を添えて終わりたい気持ちを抑えてこれでこの長文は終わります。

ここまで読んでくれた人がいたらありがとう。

追記:少しだけ文章校正をしました。多くの読んでくれた方、改めてありがとうございます。

乱筆乱文、誤字脱字、事実誤認、諸々失礼。

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追記

たくさんのコメントをいただき感謝に耐えません。

とても参考になる知見も多くいただきました。

これで終わりではないので、是非、今後に生かしたいと思います。

この話は私の人生のある側面の、ある時間だけをバッサリ切り取ったもので、

別の面では幸せであり、大半の時間は、苦労はありますが、それなりに恵まれた生活を送っています。

悲劇性や誘因性の強い文章になりましたが、自分自身を奮い立たせるために自己演出した部分も多分に含まれていますし、

それなりに珍しい経験をしたので「保育園落ちた日本死ね」位の話題にならないかなー、と。

助平根性で書いた面もあった事は表明しておきます。

ただ事実と異なる事柄は書いていないつもりですが、母の性格を受け継いだせいか、感情基準での記憶をする傾向があり

事実の認識に多少の誤りがあるやもしれない事を明記しておきます。

特に地元の総合病院の精神科医師が話してくれた、治療の可能性や、相談内容、他の施設の紹介といった、

具体的な情報のくだりは、今思うと当時の余裕のない状況で色々思い違いをしていたり、

その時点で必要な情報だけを記憶に留めようとした傾向があるので、もしかしたらきちんとした説明を受けていたのかもしれません。

心理面での負担や苦労をねぎらってくださるコメントも多くいただきましたが、

母の事で本当に辛いと感じていたのは母の病気が発症するよりも前の方がはるかに多く、

病気が進行してからは、母の事であまり辛いと感じたことはなく、やっかい毎が面倒だ。

調べ物が面倒だ、なかなかうまい方法が見つからないで面倒だ、事務処理が面倒だ、

と、いったような仕事での面倒毎に近い感覚だったかもしれません。

もやっとした問題に対して、検索するには言葉もあいまいで、答えも方法論も様々過ぎるし制度もたくさんあるしで、

的確な道順や回答を出せる所にいつまでも辿り着けず、情報迷子になった側面は多分にあります。

普段はGoogleさんをそれなりに使いこなし問題解決の為のITリテラシーはそれなりに自信がありますが、

実は 『ケースワーカー』さんという言葉の存在はかなり最近になってから人づてに知りました。

それまでは地元の総合病院に電話した際や行った等、もしかしたらそれに気づかず『受付の人』という認識で相談をしたこともあったかもしれません。

本文には書きませんでしたが、昨年末あたりから、精神科のある病院への電話問い合わせの窓口や、福祉センターの精神保健福祉担当で、

ケースワーカーさんと相談したい』とわざわざ言ってから色々相談する様になって、

ここには書かなかった世帯分離の手続き等に対しての答えにも、光が見え始め徐々に事態が好転してきた次第です。

ケースワーカー』さんはここ数年認知され始めたマジックワードで『当番弁護士を呼んでください』

という言葉を知っているか否か、みたいなものかもしれませんね。

もし、私と似たような境遇でどうしてよいかわからない場合は、役所や病院等へ電話をかけ、

まず『ケースワーカーさんと私の〇〇の問題について相談したい』と言うのが良いのかもしれません。

最後に、本文で書かなかったエピソードを一つ

地元の総合病院の精神科の待合室で、母と初めての診断を待つ際の事。

待合室の傍に、精神科病棟への通路があり、おそらく統合失調症の方が、看護師に連れ添われ、

意味不明な話しをしながら歩いて行くのを見て言った母の一言が最高でした。

『かわいそうにねー、頭がおかしいのねー』

今では母の相談をする際に、緊張を和らげる意味で使う鉄板ネタになっています。

三菱東京UFJ銀行 国債入札の特別資格返上検討

6月8日 6時32分

日銀のマイナス金利政策の影響で国債の利回りがマイナスまで低下し、保有するメリットが薄れているとして三菱東京UFJ銀行が、国債の入札に有利な条件で参加できる特別な資格を国に返上する方向で検討していることが分かりました。
関係者によりますと、大手銀行の三菱東京UFJ銀行は「国債市場特別参加者」と呼ばれる国債の入札に有利な条件で参加できる特別な資格を国に返上する方向で検討しています。この資格は、大量に発行される国債の安定消化を図ろうと国が大手の銀行や証券会社を対象に付与しているもので、各金融機関は国債の入札について財務省と意見交換できる一方、すべての入札で発行予定額の4%以上の応札が義務づけられています。
今回、三菱東京UFJ銀行がこの特別な資格の返上を検討しているのは、日銀によるマイナス金利政策の影響で多くの日本国債の利回りがマイナスまで低下したことで、運用益が稼げなくなるなど保有するメリットが薄れていることがあり、実際に返上すれば、国内の大手銀行では初めてのこととなります。
政府は今年度、過去に発行した国債の借り換え分も合わせて年間でおよそ162兆円もの国債を発行する計画で、大手銀行などがその主な買い手となっているだけに、国債の購入に距離を置くこうした動きが今後ほかの金融機関でも出てくるのか、またその場合、国債の市場にどのような影響が及ぶのか注目されます。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160608/k10010549511000.html

「ティッシュって甘いんだよ」幼い姉妹、母と空腹の日々

足立耕作、山内深紗子

2015年12月19日21時41分

■子どもと貧困 シングルマザー編

 白飯、サラダ油、しょうゆ。

 2年前に生活保護を受けるまで、長野県に住む女性(30)の食卓に、しょっちゅう並んだ献立だ。ざっくり混ぜて食べると、油のコクで空腹が満たされる気がした。最初はツナ缶の残りの油をかけていたが、缶詰は買えなくなった。長女(9)と次女(8)は「おいしいよ」と食べた。

 おなかをすかせた2人は当時、女性に隠れてティッシュペーパーを口にした。次女は塩をふってかみしめた。「ティッシュって甘いのもあるんだよ」。後になって長女が教えてくれた。いい香りのするもらい物のティッシュは、かむと一瞬甘いという。

 そんな困窮状態になっても、周囲に「助けて」とは言い出せなかった。

 2010年、夫の暴力に耐えきれず家を出た。派遣社員として工場で働き、月収は多くて15万円ほど。だが、うつ状態で休みがちになった。収入は落ち込み、光熱費を滞納し始めた。

 夫から「役立たず」「ダメなヤツ」と罵倒され続けてきたことで、「自分がすべて悪い」という心理状態が続いた。夏でも窓を閉め切り、買い物に出かけるのもためらった。

 国民健康保険料を滞納したために呼び出された役所では、「収入10万円でも払っている人はいるんだ」と職員に言われた。ぜんそくの長女が風邪をひき、手持ちがないまま訪ねた薬局で、「後日必ず払います」と懇願したが、「慈善事業じゃない」と断られた。

 親類や知人も生活は苦しく、「甘えるな」「節約したら」と言われた。「人を頼っちゃいけないんだ」。そう思い込んだ。

 2012年暮れ。次女が風邪をひいた。この状況を何とかしなければと訪れた病院で、小児科医らに生活保護を勧められた。だが役所では、うつだと話しても、「もう少し働いたら」と何度も促された。「やっぱり頼っちゃダメなの」。申請をあきらめた。その後、クレジットカードのキャッシング(借金)を繰り返したが、数カ月で返済が滞った。

 13年12月。電気の止められた部屋で、野菜の切れ端が入った薄い雑炊を3人で1杯ずつすすった。ろうそくの炎を見つめるうち、長女から「死んじゃうの?」と聞かれ、決意した。

 あのときの小児科医に助けを求め、福祉相談に応じている病院の職員に付き添われて生活保護を申請。うつが悪化し、就労は困難だとして認定された。

 今は月18万円ほどで暮らす。前は何も欲しがらなかった長女や次女が、「マック食べてみたい」「弁当にから揚げ入れてね」と言うようになった。

 女性は振り返る。「周囲の厳しい視線を感じて殻に閉じこもった。周りの人もがんばってるんだから自分だけ助けてって言うのは恥ずかしく、なかなか言い出せなかった」

■娘の口癖「それ買っても大丈夫なの」

 東京都で中学2年の長女(13)を育てる女性(38)は3年前、夫の浮気や事業不振などで離婚。居酒屋で調理のパートを始めた。翌日学校がない金曜はスナックでも働いた。

 500円ほどのお茶代が払えなくなり、ママ友との付き合いから自然と遠ざかった。中部地方にいる両親は年金暮らしで祖母の介護もあり、頼れない。「うち貯金いくら?」「それ買っても大丈夫なの」。それが長女の口癖になった。

 不安で閉じこもりがちになり、仕事に行くのが精いっぱい。食事がのどを通らなくなり、離婚1カ月で5キロやせた。

 それから1、2カ月したころだ。

 「暗い顔して。困ったら何でも相談してよ」

 やつれた姿を見かねて、パート仲間の女性たちが声をかけてくれた。安売りの情報を教わり、長女の誕生日にはハンカチをもらった。悩みを話せるようになり、少し肩の力が抜けた。

 長女は昨冬から、友人の誘いで、無料の塾や、低料金で食事を出す子ども食堂に通い始めた。「同じような境遇の子ばかりでほっとするし、大勢でご飯食べられて楽しいよ」と言う。

 自分も子ども食堂に行ってみた。スタッフに「まだ若いんだから大丈夫よ」と励まされ、資格を取って転職するよう助言を受けた。「そっと見ててくれる人たちがいたから今がある。不安はいつもあるけれど、娘と一緒に勉強してステップアップしてみようかと意欲が湧くようになりました」(足立耕作、山内深紗子)

■専門家「孤立防ぐには精神的ケアを」

 厚生労働省の全国母子世帯等調査(2011年)によると、同居親族がいる世帯も含めて母子家庭は推計約124万世帯。1983年の約72万世帯から1・7倍に増えた。母子家庭になった理由は8割が離婚。児童扶養手当や養育費などを含む母の平均年収は223万円(10年)で、父子家庭の父の380万円(同)を大きく下回る。

 相談相手の有無では、2割が「いない」と回答。「いる」世帯の相談相手は「親族」が5割、「知人・隣人」が4割の一方、公的機関や民間団体はいずれも1割に満たなかった。

 子どもの貧困に詳しい立教大の湯沢直美教授(社会福祉学)は「仕事と家事で精いっぱいで、母親は相談に行く余裕がない。離婚を自己責任とみる風潮も強く、支援を求めづらい心境になりやすい」と説明。

 離婚の原因に絡む家庭内暴力(DV)の影響も深刻だ。「離婚後も心理的に追い詰められた影響が続き、精神を病む場合も少なくない。孤立を防ぐには精神的ケアも必要」と指摘する。

     ◇

 日本の子どもの貧困率は16・3%(2014年発表)で、ひとり親など大人が1人の家庭に限ると5割を超す。なかでも母子家庭は、年収が父子家庭の3分の2に満たない。今回は困窮するシングルマザーと子どもの問題を考えます。

http://digital.asahi.com/articles/ASHDL4VDGHDLPTIL01K.html

(インタビュー)強制連行、史実から考える 歴史学者・外村大さん 2015年4月17日05時00分

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11708895.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11708895

 戦時中、日本に動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑を、撤去するよう求める動きが最近、各地に広がっている。「強制的」という文字をテープで隠したり、副教材から説明を削除したりした自治体も現れた。史実に揺らぎが生じているのか。朝鮮人強制連行の歴史を追いかけて20年以上になる外村大・東京大学教授に聞いた。

 ――強制連行の歴史に長くこだわってきたのは、なぜですか。

 「どうせ韓国の味方でしょうとか、どうも『反日』らしいとか、色眼鏡で見られがちですが、私は日本近現代史の、実証を重んじる研究者です。戦前の日本帝国の実像は、裏側からのほうがよく見える。今後、日本がどんな社会をつくっていくかを考えるうえでも大切な歴史です。韓国・朝鮮人のためというより日本人自身のため、未来のために記憶し、伝えていくべきだと思っているのです」

 ――強制連行は「なかった」と主張する人がいますが。

 「とんでもない。朝鮮半島で、日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、史料や証言からも否定しようがありません。政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『官あっせん』『徴用』と変わりましたが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出されました」

 「こんな当たり前の史実が近ごろ、なぜか曲解される。誤解や間違いも目立つ。歴史家の常識と、世間の一部の感覚とが、ずれてきたように感じています」

 ――なぜ、こんなことに?

 「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」

 「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い。慰安婦問題で国が直接、連行を命じた文書が出ていないことに乗じ、強制連行までも『なかった』ことにしたい人がいるのでしょう」

    ■     ■

 ――事実の断片と歴史の本筋。どうすれば見分けられますか。

 「何が一般的で、何が例外的な出来事だったかを見分けるには、幅広い史料にあたり、ミクロとマクロの両方から押さえる必要があります。日本の統治機関である朝鮮総督府の調べでは、太平洋戦争開戦前年の40年に朝鮮農村で『転業』を希望していた男性は24万人程度しかいなかった。朝鮮内部の動員や満州への移民もありましたから、その年だけでも底をつく人数です。翌年から人集めが大変になったのは疑いようがない」

 「実際、内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告しています。厚生省から出張した職員も45年1月、村の労務係の言葉として、住民から『袋だたきにされたり刃物を突きつけられたり命がけ』だと報告している。それほど抵抗が広がっていたのに、日本帝国は無理に無理を重ね、逆に動員数を増やしていったのです」

 ――そこまでして動員したのは、なぜですか。

 「政府が目指していたのは、あくまでも戦争勝利でした。そのために労働力を総動員し、石炭や食料を増産しようとした。朝鮮人の多くが投入されたのも炭鉱です」

 「炭鉱は重要産業なのに人手不足で困っていた。待遇が悪く、監獄部屋に象徴されるように労務管理も劣悪だったからです。本来なら機械化と意識改革を進めるべきでした。しかし業界は朝鮮農村の困窮や無知につけ込み、安い労働者を確保しようとした」

 「ただ、朝鮮に行政機構は整っていませんでした。識字率が低く、ラジオはおろか電気すら通っていない村々で、日本内地に渡る労働者を集めるのは非常に困難な作業だった。とにかく若い男を呼び出し、最後はトラックに押し込むような事態になったのです」

    ■     ■

 ――「募集」段階では強制とは言えないという人もいます。

 「初期の段階から当局は深く関わっていました。たとえば会社の募集係に同行し、日本人の警官が家の前に立つ。役人から呼び出しがかかる。それだけで多くの朝鮮人が恐れをなし、おとなしく応じたのです。断って大変な目に遭った、というような話が出回っていましたから。それが植民地というものです。その後、戦局が悪化するにつれ、暴力性は誰の目にも明らかになっていきました」

 ――最後は徴用までした、と。

 「そこが誤解されがちですが、『徴用』は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だったんです。弔慰金や別居手当など援護もついてきた。だから日本人は戦争初期から徴用されました。ところが、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年です。徴用令を適用しないまま、多くを動員したのが特徴でした」

 ――なぜでしょう。

 「日本人と違って、ちゃんとした権利を持つ主体ではなく、法に基づく行政命令がなくても動かせる、と見なされたからでしょう。安くても、厳しい職場でも、つべこべ言わずに働いてくれるだろうと。差別意識があったのです」

 ――最近の外国人労働者問題の議論に似ていますね。

 「そうなんです。人手不足が深刻な分野で、賃金アップや労働環境の改善によって日本人を定着させるのではなく、低賃金でも働いてくれそうな外国人を期間を限って連れてくる、という発想は同じです。省庁をまたいで人員確保に関わる部局が多数あり、利害や思惑の違いを抱えていて、きちんとした方針を打ち出せなかった点も似ている。結果として、なし崩し的に動員が広がっていきました」

    ■     ■

 ――裏側から、日本帝国のどんな姿が見えてきましたか。

 「戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実です。総力戦では、まさにその国の素の姿が現れます。英国のように労働運動が盛んな国では、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えた。日本では民主主義も労働運動も弱かったので『ともかく働け』となった」

 「朝鮮に長く住んだ役人の中には、創氏改名に反対した人もいたんですよ。ところが、そういう声は上に届かず、現地の事情に疎い役人が無理な計画を立てた。動員数を達成するため老人や病人まで送り出し、すぐに送り返すようなことまで起きていたのです」

 「民主主義を欠いた社会が、十分な準備も態勢もないまま無謀な目標に突き進めば、結局はその社会でもっとも弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだと思っています」

 ――戦後70年で出す首相談話が議論になっています。

 「朝鮮半島で起きた歴史を踏まえれば、村山談話にも小泉談話にもあった『植民地支配』への『おわび』は盛り込んで当たり前です。ただ、特定の言葉が入るかどうかだけが注目されることには違和感もある。村山談話には『若い世代に語り伝えて』いくとありますが、では歴代政府はその後、何をしたのか。もっと具体的な行動を積み重ね、信頼関係を築くことこそが大切なはずです」

 「日本には朝鮮をルーツに持つ人も、中国をルーツに持つ人もいます。戦後は一緒に手を携えて、民主的で平和な日本を築いてきました……ということが言えるようになればいいのですが」

 ――歴史を見る目も、外交関係に引きずられがちですね。

 「その時期を生きた私たちの祖先を尊重したい、という思いは私も同じです。ただ、足尾鉱毒事件を闘った田中正造は、日韓併合で浮かれているような民族は滅びると批判していた。朝鮮の植民地官僚の家庭で育った作家の梶山季之も、日本人の責任を問う作品をいくつも残しています。植民地支配に何の矛盾も感じずに職務を遂行した人だけを、私たちが継承すべき日本人の姿だ、歴史だと言うのは、とても不自然です」

 「怖いのは、学校教育の現場で、強制連行の問題は厄介だから触れずにおこう、という雰囲気が広がることです。その気配はすでに現れている。生徒にしてみれば授業では教わらず、書店に行けば嫌韓本が山積みなんです。なかった論を信じ込みはしないまでも、語られてきた歴史は少し違うのではないか、という疑いを持つ人が増えてもおかしくない」

 「追悼碑の問題も、自治体は明らかに腰が引けている。地元の人々が強制連行の歴史を掘り起こした地域も少なくないんです。そんな歴史があったということを自治体トップがきちんと認め、発信する。歴史の真贋(しんがん)を見抜く力が、いま私たちに求められています」

 (聞き手・萩一晶)

    *

 とのむらまさる 66年生まれ。早稲田大学社会科学研究所助手をへて07年から東京大学大学院総合文化研究科准教授、今春から教授。著書に「朝鮮人強制連行」。

ここから本文です イヌ型ロボットAIBOの「合同葬儀」 千葉

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150228-00000021-jij_afp-int


【AFP=時事】千葉県いすみ市にある興福寺で1月26日、ソニーSony)のイヌ型ロボット「AIBO(アイボ)」の「合同葬儀」が行われた。


 1999年の発売当初、AIBOは25万円という価格ながら、初回販売分の3000台が20分で売り切れる人気ぶりだった。しかし経営不振に陥ったソニーは、2006年にAIBOの生産・販売を終了し、14年3月には修理窓口の「AIBOクリニック(AIBO Clinic)」を閉鎖した。

 それでもAIBOを愛用し続ける利用者のために、ソニーの元技術者を採用した修理専門工房「ア・ファン(A FUN)」が現在、AIBOの修理を引き継いでいる。もはや生産されていない部品の唯一の調達源は「ドナー」となってくれる他のAIBOだ。「葬儀」が済んだAIBOから、修理を依頼されたAIBOに「移植手術」が行われるという。【翻訳編集】 AFPBB News

地域おこし協力隊員の雇用打ち切り 秋田・上小阿仁村

http://digital.asahi.com/articles/ASH2L3V2FH2LUBUB003.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASH2L3V2FH2LUBUB003

地域おこし協力隊員の雇用打ち切り 秋田・上小阿仁村

曽田幹東

2015年2月20日09時36分


 高齢者が多い秋田県上小阿仁村の八木沢集落で、昨年4月から集落支援にあたる「地域おこし協力隊」の男性(49)に対し、同村は新年度の雇用を延長しないと通告したことが、18日わかった。村内で活動する20代の女性隊員は年度内で離任する意向を示しており、村は3月中に複数の地域おこし協力隊員を募集する方針だ。

 同村総務課の小林隆課長は「住民から男性隊員の契約延長を望む声がなかった。トラブルがあったわけではないが、住民とうまく打ち解け合えなかったようだ。集落支援は必要なので、4月に間に合うように再募集したい」と話す。

 男性は名古屋市出身で、赴任前は青年海外協力隊に参加したり、アルバイトをしながら陶芸活動をしたりしていた。八木沢集落では住民の通院介助や除雪の手伝いなどをしていた。男性は「3年間働くつもりだったが、『更新できない』と言われれば仕方ない」と話した。村からの通告後、仕事を探し、九州で再就職が内定したという。

 地域おこし協力隊は、都会から過疎地域に移住し、地域おこしや住民の生活支援にあたる総務省の制度。雇用主は自治体になるが、国の特別交付税から隊員の給与が支払われ、任期は最長3年間になっている。同村では、月額16万6千円の給与を支払い、1年ごとに任期の延長を判断する契約だった。

 同村は2009年に東北で初めて2人の隊員を採用。この2人は3年の任期後、村が臨時職員として再雇用した。その後、現在の2人の隊員を13年7月と14年4月に1人ずつ雇用した。

 県によると、県内ではこれまで、試験的な短期雇用を除き、20人が活動を終えたが、そのうち、1年以内で雇用契約が終わったのは3人。任期は1年ごとに延長するのが主流で、延長されなかったケースには隊員の「自己都合」もあるが、具体的な件数は把握していないという。

 今回の村の判断について、東北地方で活動経験のある元隊員は「隊員は3年間働く覚悟で見知らぬ土地にやってくる。1年でクビになるなら、希望者はいなくなる。配置転換などで雇用を継続する配慮があってもよかった」と話した。

 国は地方創生策の一環として、13年度の隊員数978人を16年度に3千人に増員する計画だが、隊員の募集が全国的に増えるにつれ、人材が集まらず、採用に苦労する自治体も現れている。(曽田幹東)

■後見人のような存在が必要

 県立大の荒樋豊教授(農村社会学)の話 例えるなら、「1年間の花嫁修業がうまくいかなかった」ということだろう。どちらが悪いとは言えない。ただ、隊員側が様々な住民ニーズに耐えきれなかったり、住民側には隊員が勝手な行動ばかりで何もやっていないように見えたりして、溝ができてしまうケースはしばしば起きている。双方の思いの掛け違いは、協力隊制度が抱える問題だ。隊員が地元になじんで機能するには、隊員の活動を見守り、指導できるような地元の「後見人」のような存在が必要だろう。

ベトナム人被告はなぜヤギを食べた 「過酷な生活」証言

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ベトナム人被告はなぜヤギを食べた 「過酷な生活」証言

小林孝也

2015年2月19日22時59分


 岐阜県美濃加茂市で昨年8月、除草用に飼われていたヤギを盗み、食べたとして、窃盗罪に問われたベトナム人の被告は、技能実習生として来日していた。岐阜地裁の公判で、日本での過酷な生活について証言した男たち。なぜここまで追い詰められたのか――。

 起訴状によると、いずれもベトナム国籍のブイ・バン・ビ(22)、レ・テ・ロック(30)の両被告は仲間5人と共謀し、昨年8月9〜10日、美濃加茂市の公園でヤギ2頭(時価計約7万円)を盗んだとされる。除草効果を研究するため、岐阜大学教授が市などと協力して飼っていた16頭の「ヤギさん除草隊」のうちの2頭だった。

 法廷での証言などによると、ロック被告は来日前、ベトナムの田舎町でタクシーの運転手をしていた。両親と妻、娘の家族5人暮らしで、月給は日本円で1万6千円ほど。暮らしは貧しかったという。

 「日本で働けば月給20万から30万円。1日8時間、週5日勤務で土日は休み。寮あり」。こんな話を仲介会社から聞き、「思いつかないほど素晴らしい」と飛びつき、来日を決めた。仲介会社には自宅と土地を担保にして銀行から借金した約150万円を支払い、2013年3月に農業の技能実習生として来日した。

 長野県の農業会社でトマトを育てる仕事に就いたが、勤務条件は聞かされていたものとはかけ離れていた。毎日午前6時から翌午前2時まで働き、休みはない。午後5時までは時給750円、以降は1袋1円の出来高払いでトマトの袋詰めをした。1千袋詰めた日もあったという。

 用意された「寮」は、農機具の保管場所。シャワーはあったがトイレはなく、電源盤の下の約2平方メートルで寝た。「家賃」として月額2万円が給料から天引きされ、手元には6万円程度しか残らなかった。それでも可能な限りの3万〜4万円を母国に仕送りした。

 家と職場を往復するだけの日々。7カ月にわたって我慢したが、「頑張ったが、疲れてしまい、逃げ出した」。インターネットの情報を頼りに、愛知県日進市の土木会社で仕事を見つけた。しかし、在留期限が切れた14年3月に解雇され、無職になった。

 「借金を残したままベトナムに帰れば担保にしている自宅などが奪われてしまう」。家族にも打ち明けられず、スーパーで弁当などの万引きを繰り返した。

 同7月ごろからは、ビ被告と同県春日井市のアパートで一緒に暮らすようになった。ビ被告も無職。約200万円の借金をして短期大学に通うため来日したが、学費が払えずに退学していた。

 8月上旬、ベトナム人の仲間約20人で、誕生日パーティーを開いた際、ヤギを盗む計画が持ち上がった。居合わせた7人が車で公園に向かった。ロック被告が運転し、ビ被告は実行役で、2頭のヤギを捕まえて首輪を外し、粘着テープで口や脚を縛った。ベトナムではヤギ鍋などは庶民の味で、すぐに解体して食べたという。

 2人は別の窃盗事件と出入国管理及び難民認定法違反の罪にも問われている。検察側は今月12日、懲役2年を求刑し、弁護側は最終弁論で執行猶予付きの判決を求めた。判決は27日に言い渡される予定だ。(小林孝也)

■レ・テ・ロック被告が提出した謝罪文(抜粋)

 悪いことをしたことは自分でもよくわかっています。言い訳ではないですが、私の話を聞いてください。一生懸命働いてお金をためてベトナムの家族に送るために日本に来ました。生活が苦しいので、日本で働きたい。そのために家を担保に借金をして日本に来ました。7カ月頑張りました。もう力が無く疲れてしまい、会社を逃げ出しました。お金が無くなってきて、日本語も下手、誰も助けてくれない。ベトナムに帰ろうと思ったが、借りた150万円を返していない。今帰ったら家族が困る。日本にいれば仕事が見つかるかもしれない。でも、おなかがすいた。スーパーで初めてごはんを万引きしました。命を守るため万引きしました。本当に申し訳ありませんでした。

     ◇

 〈外国人技能実習制度〉 日本で技術を学び、母国で役立ててもらうのが狙いで、1993年に始まった。実習生には労働基準法が適用され、期間は最長3年。仕事が単純作業ではないことを条件に、職種は繊維や食品製造、農漁業など69職種に上り、中国やベトナム、フィリピンなどからの15万人以上が働いている。送り出し国の団体が実習生らから取り立てる高額な「保証金」のほか、残業代の未払いや長時間労働などの違反も問題になっている。今後は人手不足が深刻な介護分野でも受け入れ、期間を5年に延長することなどが検討されている。